テーマは「国語論理教室」【小学部】

私の方で行っている小学「国語論理教室」。長年中学生を教えていて強く感じることは、全ての学力の土台は「国語力」にあるということです。

単に論理的に文章が読めるということだけでなく、どれだけ活字をイメージ化できるか。また、そのために、どれだけ丁寧に活字を読むことができるか、が小学生のような初学者にとって特に必要なことなのだと思います。

通常より数倍かそれ以上の速さで速く読む「速読」は、全体の概要を素早くつかむことには大いに役立つとしても、それは、既にその書物の内容に対して基礎知識がある場合に通用することだと思っています。

速読ができる人に、その人にまったく知識のない分野の内容(例えば、大数学者オイラーの方程式の解説書など)を速読することは難しいだろうし、それで解法を理解することはなおさら難しいだろうことを想像すれば、理解できることとと思います。

また、初学者に速読をさせると、「はしょって概要を理解すればいい」という、速読本来の目的を理解してしまうがために、細かい描写をはしょってしまうくせを身につけさせてしまうのではないかとも心配してしまいます。

人間は、多くを経験に基づいて、判断し、思考しています。それが真実だとすれば、経験の浅い初学者には、多くの情報をはしょる速読ではなくて、「名文を遅読」することの方が意義が大きいと考えています。

書かれている表現や語彙(ごい)をゆっくりと読み取り、その情景をしっかりとイメージし、時には紙の辞書をしっかりと引いて、言葉が持つ細かい意味を確認していく。このような習慣を身につけさせることの方法が、目の前のテストの成果を上げるには時間がかかったとしても、私の経験上からも、結果的には中学・高校に上がったときに確固たる国語力(すなわち学力)を身につけさせることの最善の策であると考えています。

今、学習塾を運営しながら、それをいかにも強制でやらせるのではなくて、その一連の作業が「楽しい」と思えるように育てることが、特に初学者にとっては大切なことだと痛感しており、どうしたらそれが実現できるのかを考え、試行錯誤をし、書店で良書を探しては買いあさって研究しております。

私の国語論理教室では、「楽しい」と思えることを一番に念頭に置き、さまざまな工夫を行っております。その上で遅読をし、辞書をしっかりと引いていくということも含めて教育をしていこうと考えております。

ここからは余談ですが、辞書については、最近は中学生でも「電子辞書」を使う人が増えています。確かに、学校などで使うなら、重たい辞書を2~3冊も持ち歩くことは難しいし、机の片隅に置いた小型の電子辞書1つであらゆることを調べられる便利さゆえに、学習の能率が上がることを期待して買い与えたりすることもあると思います。しかし、どうでしょうか。

初学者であるほど、すなわち、頭が柔軟なときであるほど、人間が持つ優れた特質である「頭脳空間」を広げておくことが大切であることは明かです。

そのために、毎日の中に、どれだけ「脳」を使う意味のある行動をするかが大切だと思います。例えば、配られたプリント1枚をしまうのにも、きちっと角を合わせてきれいに折るか、雑に折るかでも違ってきますし、ガムや飴の個包装紙を捨てるときにも、丸めてポイとするのではなく、きちっと折って、体積が小さくなるように考えて捨てるのかでも違ってきます。靴を毎回きちんとそろえるのもそうです。

そう考えますと、最も大切な学習のひとつである言葉の学習において、電子辞書を使った「速読」よりも、紙の辞書を使った「遅読」に大きな意味が出てくるはずです。

紙の辞書を引けば、ついでの言葉を目にしますし、その言葉が書いてあった「位置」までも含めて、無意識に頭が記憶しようとします。索引を引くにも「キーボードで文字を打つ」というやや意味の薄い行動に集中するよりも、言葉の配列の前後関係を考えながら適切な場所を探すためにはもっと多くの脳を使います。しかも、慣れれば、ゆっくりキーボードを打つことにひけをとらないくらい速く辞書を引けるようになるので、実用上もそれ程劣っているというわけではありません。知らず知らずのうちに脳を使うことの意義をもう一度考えてみたいと思います。(それゆえ、私の塾では電子辞書を推奨せず、強制ではありませんが、紙の辞書を引くように推奨しております。)

1つ1つのことは小さな事でも、一日の中での回数が多いわけですから、その積(効果×回数)は無視できない値を持つようになってくると思います。

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